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時代小説に夢中

ヘミングウェイ「日はまた昇る」守屋陽一訳を読んで

第一次世界大戦を経験した若者が、自堕落に過ごす日々・・。

終始、お酒を飲んで、酔って、喧嘩して、食べて、遊ぶ。

ヘミングウェイ自身と、一緒にスペインを訪れた7人の友人がモデルで、イギリス人の貴婦人ブレット・アシュリーを奪い合う。

何なの、この人たち、と思いながら、何かが待ち受けてるんだと読み進めたけれど、そのままラストを迎える。

守屋陽一さんの解説を少し

処女作というものは、かならずしも読みやすいとはかぎらない。作者は読者のことなど考えない。自分一人のことでいっぱいだからだ。彼もこの小説の中でみせびらかせたいものを、ずらりとならべてみせたのである。パリの風俗、釣り、パンプローナの祭り、闘牛、流行のおしゃべりや観念、カトリックの信仰の問題さえちらりと顔を出す。

現行の翻訳は、高見 浩さんのレビューが多く、解説が良かったという声もあったので、私が読んだ守屋陽一さん訳は昭和45年訳とかなり古く、少し違った印象になるのかもしれない。

 

Wikipediaから少し

1926年に発表した長編小説。和題は誤読されやすいが、米題からわかる通り「また昇る(also rises)」というのは、「沈むだけではなく(also)昇りもする」の意であり、「再び(again)昇る」の意ではない。ヘミングウェイにとって初の長編であり、出世作でもある。日本語訳は多くあるが、現行は新潮文庫の高見浩訳と、集英社文庫佐伯彰一訳である。

第一次世界大戦中に青春を過ごしたアメリカ合衆国の若者はロスト・ジェネレーション(自堕落な世代)と呼ばれ、未来への希望を欠いた日々を送っている。

 

どんでん返しがあるわけでもなくラストを迎えたのだが、読み終えてから初めて、主人公のジェイクとブレットの凄さに驚かされた。不思議なことに読みなおしたくなった。

二人は精神的に愛し合っていたが、戦争の傷で不能となったジェイクは、多くの男性と関係をもって恋に落ちているブレットを、つかず離れず静かに見守っている。でも、ジェイクは、最後には自分の元へ戻ってくるという自信を持っていたのだ。奔放なブレットも、自分が何をしていようと、ジェイクは受け入れてくれるという自信を持っていたのだ。

レビューの中で、「なんだかんだジェイクとブレットが一番やな奴だなあ。」という感想があった。

それも、もっともだと思う。なぜなら、一途にブレットを愛したロバート・コーンや、才能のある若い闘牛士や、ブレットの婚約者のマイクたちを想うとである。

しかし、戦争を経験していない私たちにはわからない、自堕落な生活と喪失感というものに何かがあるのかもしれない。

そして、そんな自堕落な生活をしながら、語り手の主人公ジェイクの心情がところどころにある。「多分、人間というものは、歩きながらなにものかをまなんで行くのだ。私に関心があるのは、それがなにかということではない。私が知りたいのは、その中でどのように生きるかということなのだ。その中でどのように生きるかということを発見すれば、その本質もわかるにちがいない。」

アメリカのロストゼネレーション世代に熱狂的な支持を受けたところなのかもしれない。

気になったのは、仲間からひどく嫌われていたロバート・コーンだ。そこまで嫌われる理由がまったくわからなかったが、今のご時世ではあまり触れないことにする。

対照的に、魅力ある人物として描かれているのが、若い闘牛士のペドロ・ロメロだ。闘牛士は見せかけの感動を与えるために、見せるテクニックばかりうまくなる。しかしロメロは、古い伝統を忠実に守り、もっとも大きな危険に身をさらしながら、牛に殺される覚悟を決めさせるのだ。そして、元ボクサーのロバート・コーンに何度も殴られる場面は気高くて悲しくなるくらいだ。

 

闘牛やフィエスタの祭りなどのシーンは映像が目に浮かび、革袋から飲むワインなども飲んでみたくなる描写が多かった。

そしてブレットだ。女性からはもっとも嫌われるタイプではないかと思う。ただ、ブレットはブレットで暗い過去を持っているのだが、あの奔放さ、自分が何をしていようと必ずジェイクは自分を受け入れるという自信。それはとにかく羨ましい。

 

以上、まとまりのない感想。

 

日はまた昇る」守屋陽一訳は、古書を頂いた。

それが、とてもロマンがあるというか、妄想がいろいろ膨らむから古書の楽しさがある。

恋人に贈ったのだろうか・・

昭和45年と47年に発行されているので、その頃20歳と想像して、健在ならば70歳は超えているだろうか。道子殿、もし返してほしいと思ったならご連絡くださいませ。

 

 

私はしょっちゅうご馳走を食べることはないが、昨日、大好きな蟹のご馳走をいただいたので記念に。

蟹とフグですよ