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時代小説に夢中

「41歳からの哲学」池田晶子:生きても死んでも大差ない

ちょっとしたきっかけで手にした哲学の本。

41歳から・・これは実年齢とはかけ離れています、念のため。しかし、残念なことに精神年齢はもちょっと低いと思う。

本書は、「週刊新潮」で「死に方上手」のタイトルで連載されたものを集めた書籍だそう。

本書の冒頭から「生きても死んでも大差ない」という名言に出くわし、面食らったものの、妙に納得している自分がいた。

どういうことか。

戦争や、北朝鮮からのミサイルなど、池田晶子さんにとっては、「それがどうした」なのである。

歴史は戦争の繰り返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。

私は小学5年生の頃、公園のブランコに揺られながら、「生きるとは」「死とは」について、どういうことか考えていた時期があった。もちろん、死にたいという事ではない。他の人も同じようなことを考えるのか分からなかったが、何となくそんな話はタブーのような気配を感じ取っていて、誰にも話したことはなかったけれど。

本書を読んで、小学5年生の頃を思い出し、今ごろ納得できたのかもしれない。

 

池田晶子さんは、専門用語を使わず、哲学するとはどういうことかを日常の言葉で語ることに定評があるということで、「14歳からの哲学」という本も出している。

そのため、雪深い山の中学校から講演の依頼があり、出かける。すると、感動するくらい純朴で、真剣に聞き入る子どもたちなので、こちらも真剣になると。そして学校の先生は、そんな子どもたちが心配で、町の高校へ行っても外的状況に動じない、強い精神に鍛えてほしくて池田晶子さんに依頼してくるのだ。

世に出る前には、世に出る前にしかできないことがある。それが考えることである。徹底的に考えて、自分の精神を鍛えておくことである。その過程を経ることなく、世に出てしまった大人たちを見よ。世の状況に左右され、フラフラと動じてやまないではないか。

 

そして、生き物である食べ物に感謝することについては次のように語っている。

私が生きるための食べ物になってくれてありがとう。「ありがとう」、言うだけではダメである。それは証されなければならない。証とは何か。決まっている。よい人間になることである。よい人間、真っ当な人間として、生きることである。そうでなければ、私が生きるために殺される他の生き物たちに、申し訳が立たないではないか。

 

少子化問題については

生まれた子供は自分ではない。自分が作って、自分が産んだのだから、子供は自分の子供だと人は言いたくなるのだが、しかし、自分が産んだ子供は自分ではない。他人である。他人の人生を気の毒がるのは、失礼であるか、むしろ傲慢である。

 

耳が痛かった、「老い」について

「ピンピンコロリ」が、アンチエイジングに励む人々の合言葉なのだそうだ。私は、このようなものの考え方に浅ましいものを感じる。どうせ死んでしまうのだから、死ぬ前に、楽しみたい。楽しむだけ楽しんだら、人生に用はない。だとしたら、サルである。死の何であるかを考えることもなく、ひたすら快楽を追求するための動物的存在である。と言ったら、動物に失礼である。動物は動物の仕方で、真摯な生存を全うしているのだからである。

 

日本の世の中は、女性があまり考え過ぎると面倒くさがられるような風潮があるように思う。池田晶子さんは考えるプロであり、そのうえ結婚には子供は絶対に産まないという条件だ。それでも一緒になりたいという男性がいらっしゃったことに感動する。

残念なことに、腎臓がんで46歳で早逝。

 

生きることの尊さに気付かされる1冊だった。