東大寺の金剛力士像(仁王様)を初めて見たとき、息をのむ衝撃で立ちすくんでしまった。
それから様々な仁王様にお目にかかってきたが、作った人によって本当にお顔や姿が違っていて、作った人にも興味を持つようになった。
従来、各像の作風から吽形が運慶、阿形は快慶の作とされてきましたが、昭和から平成にかけて行われた解体修理の際、像内から発見された文書により吽形は定覚(じょうかく)と湛慶(たんけい)、阿形は運慶と快慶が主に担当したことが判明しました。運慶は、当時勢力を急拡大していた南部仏師の一派「慶派」の工房を主宰する棟梁であったため、製作総指揮者として2体の造像の全体を統括したものと考えられます。
金剛力士像は2体で1組、口を開けた阿形像と口を閉じた吽形像から成り、「阿吽の呼吸」の語源になっています。通常、向かって右側に阿形像、左側に吽形像を配置します。しかし、東大寺南大門では阿吽が左右逆になっており、しかも門の内側に向かい合わせに安置されているのが大きな特徴です。
この向かい合わせの理由が真実かどうかはわからないが書いてあった。出来上がった金剛力士像を納める直前に、運慶が南大門に向かって歩きながら「これでは大きく見えない」と気付いて、南大門を作り直させたとある。南大門に近づいて初めて見上げたときに、大きさに衝撃を受けるような工夫だったのである。
ヒノキ材を探すだけで半年、内部の水気と樹脂を抜くために1年半から2年寝かせ、棟梁は運慶であるが、制作に携わったのは、大仏師4名、小仏師16名、番匠(建築工)10名。
たまたま図書館で目についた「荒仏師 運慶」、運慶を題材にした小説があることを知らなくてすぐ手に取った。
運慶は興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した仏師である。
時代背景としては、公家から武家へと移行する平安末期から鎌倉の激動の時代。平家の栄華と衰退、将軍や天皇の変遷、源頼朝の栄華と衰退、北条政子との関りなどもとても興味深かった。
父である奈良仏師康慶から、「わが身とわが心が穢れおって、尊い御仏を造ることができるか」と教えられてきた運慶は、煩悩と我欲、心身の荒みに苦しみ脱しようと悩みながら成長していく。
そして、確執のあったライバルである快慶とのラストも良かった。
激動の時代、天災や飢饉など人は生死のはざまで翻弄され、すがりつける御仏を求めていた。
今も、手を合わせずにはいられなくなる。
一刻も早い平穏がおとずれますように。
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